
ヒトの最初の記憶は光と闇、光ある時はひたすら食べ物を探し回り陽のぬくもりを浴びていた。闇が始まるとヒトの温もりを求め集団になり闇の向こうの闇を見つめ、ただひたすらに怯えていた。
月の光も星の光も怯えた心をやさしく包んではくれなかった。
光ある時の始まり、朝を待ち続けヒトの温もりだけが支えだった。
火との出会いが闇への恐怖を少なからず和らげ、自分の存在する少しの空間から闇が消えた。しかし火の光の届かない闇への恐怖は消えなかった。
光ある時は対象を見る事が出来る、見るという行為の対象は外部にある。
その時、対象との有機的関係はない。
何かに焦点を合わせようとした時は他を見ていない。
そして記憶しようとすると焦点がさらに狭められる。
闇の時は何も見えない、眼を細めても何も見えない、外部の対象は何も見えない。
狭められた記憶は見える、心の中も見る事が出来る。
瞬間の連なりが時間として認識される。
瞬間の映像は「外世界」から切り取られ静止した画像になる。
その映像は静止しているが故に細部まで見つめる事が出来る
文字を超え、言葉を超え、動く映像よりも多くを語る。
瞬間の映像は「心」の決定によって切り取られる。
不確実性と曖昧性を合わせ持った記憶を置き去りにして確実に記録される。
夏目漱石は「三四郎」の中で日露戦争後の日本の変化について外側の世界は変化し続けている、内側の世界はその変化を見続けているが、その変化に加わる事が出来ない、外側と内側の世界は同じ空間にありながらどこにも接点を持たない事のもどかしさを書いている。
一瞬たりとも同じ水ではない川の流れのような外側の世界は内側の世界をいつも置き去りにして行ってしまう。